【感想】天気の子_ふたりの主人公の変化からみた物語【ネタバレ有】

こんにちは!Isakumaです。

新海誠監督の最新作「天気の子」を観てきました~。

 

2回劇場で見て、パンフ買って、小説買って(まだ読んでないけど)、劇中歌「グランドエスケープ」をiTunesで買って…7月の小遣いがすべて消えました…笑

今まで見てきたアニメ映画に順位をつけることは出来ませんが、「こんなに自分のストライクゾーンをブチ抜かれたアニメ映画は”機動戦士ガンダム 逆襲のシャア”以来だ」・・・と感じるほど、インパクトのある作品でした。おかげで少し精神が不安定になってまして、ネットの「あそこで陽菜がー」「ていうか陽菜がー」という感想を見るたびに

陽菜”さん”をつけろよデコスケ野郎!と頭の中で悪態をつくほどです。

他にもちょっと書いておきたいことがあって・・・。

というのも、僕はネットにアップされている感想を眺めてみて、「新海誠監督の作品としてどうか」「セカイ系の作品としてどうか」という比較的な視点に的を絞ったものを多く見つけられた一方で、「物語としてどこが面白いか」、という視点の感想をあまり見つけられませんでした。なのでここでは(妄想混じりですが)、二人の主人公の変化に注目して「天気の子」がどういう物語かについて考えようと思います。批評するにあたってありきたりな視点ではありますが。

 

以下、ネタバレを含みます。

そして言うまでもありませんが、※いち個人の感想です。

 

 


では、物語としての天気の子について考えてみます。

多くの物語には主人公、つまりストーリーの主要な人物であり、話が進むにつれて信条や主張が変わる存在でもある人物がいます。「なつぞら」でいえば”なつ”、「ドラえもん」でいえばドラえもん…ではなく”のび太”ですね。

天気の子の主人公は家出少年・帆高。そして、帆高によって変化する陽菜さんも主人公の一人と言えると思います。(小栗旬…じゃなかった、須賀さんも主人公級にスポットがあたり変化した人物だと思いますが、ここでは割愛させてください。ここでは狭すぎる。)

 

帆高は、どうあがいても自分に冷たい態度をとりつづける社会を前向きに受け入れられるようになった。

陽菜さんは、他人のためではなく自分のために祈ることができるようになった。

…無粋ながら要約すると、二人の主人公はこのように変化した、と言えると思います。もう少し、変化の経緯について詳しく振り返ってみます。

帆高は…島を出てから苦難続きでしたね。最初は土砂降りの中にわざわざ立って、大嫌いな社会に立ち向かうことに酔っていたけど、すっ転んで須賀さんに助けられる。島の外の社会も彼には冷たかったけど、陽菜さんにハンバーガーをもらって心を救われ、須賀さんの事務所で立て直すと、陽菜さんのために動くようになった。陽菜さんの力に意味を見出して、喜びを分かち合ううちに恋をした。島を出たころは晴れ間、つまり自分にとって心地の良い場所を探し求めていた彼は、晴れ間そのものではなく晴れ間をくれた人を大切にしたいと思うようになった、最終的には土砂降りから遠ざかって晴れ間を探すことを止め、土砂降りの中で晴れ間をくれた陽菜さんを取り戻すために、土砂降りの中で生きることを受け入れた。その強さは、自分たちのために世界を変えてしまった共犯者でもある陽菜さんに「大丈夫だ」と声をかけられるほどの、芯のある強さだった。スゲーぞ帆高!やったな帆高!

陽菜さんは…つくづく優しい人でしたね。とにかく、自分より他人が大切な人。お母さん、凪、帆高。ずーっと、自分以外を優先して大切にしてきたもんな…。パンフレットに載ってた、陽菜さんと凪の家の間取りを観た時は絶句したわ。。陽菜さんは物語を通して祈り続ける。でもずっと、晴れを願うのは他人のためだった。クライマックスで帆高に促されて、やっと自分のために祈ることができた。優しい人が、自分のために未来を選ぶことが出来た。その変化までの道のりも結果も残酷だけどな…。ここが一番涙腺に来るわ。。

ただ、陽菜さんの変化については、この説明では足りないと思う。ここで、冒頭シーンと陽菜さんのチョーカーについてちょっと考えてみたい。

冒頭シーンは、陽菜さんのお母さんの病室。お母さんの腕には後にチョーカーにあしらわれる宝石がついている。このことから、この宝石はお母さんの形見と考えていいと思う。このチョーカー、帆高が陽菜さんを取り戻した直後にパッカリ割れてしまう。この理由は分からなかったのですが、物語の中で描かれなかった「冒頭シーンの結末」を類推すると、チョーカーが割れた意味がわかるのでは?と思いました。冒頭シーンといえば、陽菜さんがお母さんと青空をもう一度見ることを願って、病室の窓から見えた晴れ間を追いかけるシーン。この直後、陽菜さんは彼岸と繋がって「天気とつながる」能力を手に入れる・・・が、陽菜さんは果たしてお母さんと晴れ間を見ることが出来たんだろうか?

ここからいよいよ僕の想像が濃度を増していくのですが・・・僕は陽菜さんはお母さんと晴れ間を見ることが出来なかったのではないかと考えています。

どうしてこう考えるか、理由を説明します。

まず前提として、陽菜さんが「100%の晴れ女」であることを自覚するには、悪天候(=陽菜さんの気分が沈んでいる状態)が続いて、その中で何度も何度も晴れを祈って成功する必要がありました

 父がいない状態で母を無くし、凪と二人だけになった。最後の家族である凪を守るために学校にも行かず、身を粉にして1年ものあいだ家庭を守った。頼れる相手がおらず、生活の先行きが見えず、それはそれは辛かったことでしょう。悪天候が続くようになったことの直接の理由は、この生活面の不安や心細さだと思います。

 次に、何度も祈る理由について。凪との二人だけの生活の中で彼女が祈るとしたら、それはお母さんへの祈りではないでしょうか。彼岸にいるお母さんへ思いを馳せる(助けを求めたのか、過去を懐かしんだのか)ことで天気とつながり、彼女のもとへは晴れ間が差す。天気は僅かな範囲、僅かな時間、晴れただけですぐにもとに戻る。帆高と天気を晴れにする仕事を始めたあとも、悪天候は続く。凪を大切にすることを考えるばかりで、自分を大切に出来ないから。それほどまでに彼女の意識を自分ではなく凪に向けるのは、お母さんの最期までに一緒に晴れ間を見られなかった後悔からじゃないかな…と思います。お母さんに晴れ間を見せてあげたかった。でもそれは叶わなかった。もう同じことが無いように、凪のためにできることを全てやりたい。その犠牲として、彼女の心はすり減り、記録的な悪天候が続くようになる…。彼岸を思えば晴れ間が差すけれど、彼岸への距離が近くなって、ついには引き寄せられてしまう。その先にお母さんの姿は見えず、帆高とのつながりを取り上げられた上で、魚につつかれてしまう。アカン、つっら(辛)・・・。

 「お母さんと晴れ間を観られなかった説」は考えすぎかと思ったのですが、それだとチョーカーがお母さんの形見であること、帆高に救われ、自分のために祈ったタイミングで、チョーカーが割れた理由がわかりません。チョーカーの破損が、自分のために祈ることができるようになったことの証なのであれば、お母さんの形見である必要がない。チョーカーが割れたのは、陽菜さんの中で、お母さんに晴れ間を見せてあげられなかった後悔の念が消えた(=帆高と同じように、狂ったままの天気を許容できるようになった。つまりお母さんのいない日常を受け入れることが出来た)からではないでしょうか。別にお母さんを忘れたり捨てたりしたわけではないから、宝石は割れず、チョーカーだけが裂けてしまったとも言えるのではないでしょうか。

…都合よく解釈しただけの、思い込みかもしれませんが…。陽菜さんが能力を得たタイミングの直後か直前に、お母さんは亡くなったのかもなぁ…。余談ですが、帆高と陽菜さんがかなどこ雲から落ちる直前まで二人にくっついていた泡、最後までくっついているでかい泡があるんだよな・・・あれは・・・。


 

…というわけでかなり拡大解釈しながら、物語としての「天気の子」を僕なりに考えてみました。ほかにも色々切り口はあると思うので、この見方だけでこの作品の物語性のすべてを語ることは出来ないでしょう。ここでは、主人公である二人がどう変化したかのみに注目して、「天気の子は、1人の男の子と1人の女の子が、恋をきっかけに狂った社会で生きていくことを受け入れるようになるまでの物語」と言うことができるのではないかな?と結論づけることにします。長文を読んでいただき、ありがとうございました。

小説、これから読むんだけど、ここで書いたことの答え合わせができちゃったらどうしよう(;´∀`) それはそれで、楽しいかもしれませんが。

 

おわり

isakuma

五感で身近な自然を味わって暮らすひと。北海道・十勝に生息。こだわりなく、生きもの全般が好き。博士(農学)。専門はエゾシカの生態。趣味はバードウォッチング。自然観察指導員(日本自然保護協会NACS-J 会員 )。暮らしを楽しくする自然観察を広めることが夢です。ポリシーは「健康第一」。

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